「夜明けに、月の手触りを」から、展

【「夜明けに、月の手触りを」から、展】はじまりから、その日までの軌跡

【お知らせ】『ここに、台本がある』松本編 -『夜明けに、月の手触りを』から、展-


『ここに、台本がある』松本編
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『夜明けに、月の手触りを』から、展-

 

転職を繰り返す派遣社員、アイドルにはまる保育士、

広告代理店で働くデキる女、遺伝子を研究する大学院生、

関西から上京した女芸人、いずれも二十代後半の女たち。

女たちは、東京の片隅ですれ違い、出会いが緩やかな引き金となって、

日々滲んでいた思いが溢れ出す。脳裏にめぐる女たちの言葉は、

旋回し、飛躍して加速し、ひとりでに深みへと駆けていく。

誰に問われたわけでもないけれど、“女として生きる”手触りに思いが至る、

ある、満月の夜。

(『夜明けに、月の手触りを』2013年上演パンフレットより)

 

『夜明けに、月の手触りを』は、30歳を目前にした手触りを残しておこうと、

2013年に当時26歳の女性が書いた戯曲(演劇の台本)です。

女性やジェンダーをめぐる言葉がめまぐるしく変化したこの10年。

「10年前の手触りを書き留めた言葉に、様々な人が触れてみると、
 今、どのような言葉が交わされるだろう?」という関心をもとに、

戯曲をきっかけに性別年齢問わず立場の違う人が集い、それぞれの言葉を聞き合う場を、上田市の犀の角をはじめ、様々な場所でひらいてきました。

 

企画者であり戯曲執筆者でもある藤原が居住する松本市での開催を検討していたところ、関係の皆様のご協力のもと、松本市の橋倉家住宅で開催させていただくことになりました。

年齢や性別、育ってきた地域や環境によって、感じることは様々です。
フィクションをきっかけに、それぞれの今やこれまでについて言葉を交わす機会になればと思っています。

 

藤原佳奈

 

 

『ここに、台本がある』松本編
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『夜明けに、月の手触りを』から、展-

 

2023年9月20日 (水) 13時~15時半
会 場:橋倉家住宅(松本市旭2-10-1)

橋倉家住宅 - 松本市ホームページ

参加費 無料・予約制

定 員  10名(先着順)

ご予約:yoakenitukinotezawariwo@gmail.com

お問い合わせ:070-4002-5458

主催:信州大学人文学部(地域とともに創る「学び合いの場」)
協力:松本市市役所文化財

 

橋倉家住宅(長野県宝) 江戸時代の武家住宅


ご予約いただいた皆様に、台本のデータを先にお渡しいたします。
当日紙の台本をお渡しいたしますが、できれば事前に台本を読んで来て参加いただけたら嬉しいです。

これまで、ほとんどの方が初めて演劇の台本に触れるという方々でした。
フィクションはきっかけにすぎませんので、知識も必要ありません。それぞれの身体が集い合わせて、じっくりお互いの言葉を聞くことに興味がある方、ご参加お待ちしています。

 

『夜明けに、月の手触りを』から、展 企画の記録ブログ

https://yoakenitukinotezawariwo.hatenablog.com/

記録⑮:『ここに、台本がある』7/24の伊藤聖実の記録

 

 

 

『ここに、台本がある』

 

2023.07.24@犀の角

 

ほんの少しだけ人に見られることも意識した、独り言のような、メモのような、つぶやきのようなものです。

「完全な客観」は存在しないんだろうなと感じているからこそ、私自身が感じたことは大事にしたいなという気持ちのもと残してみます。

 

佳奈さんから台本が掲載された本が渡されたのは26歳のうちだった。

 

それから実際に読んだのは2回。

そして3回目が今回だった。

 

声に出して読むこと、

自分の身体を通ること、

音として感じること、

温度が違うこと、

音の中に含む想像が異なること、

「読んだ」と一言でいっても「黙読」と「音読」は全く違っていたな。

1人と複数も全然違う。

 

私は俳優志望だけど、実経験はまだない。

だから、「台詞を読む」ということに抵抗はない。むしろワクワクするけど、慣れてはいない。

そんな気持ちで臨んだ時間でした。

 

ポイント的に感じたことを残してみる。

 

 

P17 しずかの職場- - - - -

しずかの台詞を読んだ。

 

高校生の時の私みたい。

なんか「気持ちが強すぎて」というとマシな聞こえ方だけど、

相手がいるのに、相手に配慮する気持ちや余裕、想像力などが足りていない感じ?(”足りていない”って言葉もなんか…)

今の私はこの言い方はしないな。今は「どういう言い方をしたら相手が受け取りやすいのか」を含めて言葉を出しているのかな。

けど、身体としてはこのスピード感、強さ、背筋を伸ばしたしゃべり方、「!」がついて語尾までくっきりしている感じ。知っている。今は懐かしく感じるような気がする。

 

 

P21 ゆうこの幼稚園- - - - -

ゆうこと園児の母のやりとりを聞いて。

私は聞いていた。

 

ひとしきりキツかった〜。

この距離(同じ円卓を囲んだ、言葉のとおり「目の前」で、めっちゃ視界の中。逸らす方が不自然。)でこの尖った(ある種、何かを守るための強度がある)言葉が投げられている心地の悪さ。

「あなたはどっちの味方なの?」なんて急に話を振られるんじゃないかとヒヤヒヤしてしまう怖さもあった。

最後の「だってそうでしょう」だけでしっかりHP減る。

 

 

P39 5人の夜明け- - - - -

ゆうこの台詞を読んだ

 

あさこのセリフを1人で読んだ時、「あぁ、私は一番あさこに共感できるかも。」と思った。

あさこのセリフから想像できる状況。あさこはコーヒーカップと言っているけれど、私はとしまえんで今は亡き母と兄が手を繋いでいる絵が浮かぶ。事実だったのか私の気持ちから生まれた想像だったかは判断がつかないけれど、けど、私もきっと似た形の感情を持っている。ああ、あなたと共感できる気がする。

と同時に、「私は祝われる側ではない。」とも感じた。それは、結婚という行為に対する現実味がないからなのか。妹ほど世間的に器用な面が自分にはないと思っているのか。

だから私が声に出して読むときは、お祝いの気持ちから出発してはいるけれど、どうしても出てきてしまう冷たさを隠しきれず、どこか保冷剤みたいな、ずっと持っていると火傷してしまうような冷たさを含んで音にしてしまうんだろうな。

 

この回でこの「5人の夜明け」のあさこを読んだYさんの声からはあたたかさを感じた。それはYさんがこの台本を手に取るのが今日初めてだったからかもしれないけど、だとしても、やっぱりあたたかかった。

あたたかな声で読み上げられたセリフは、もう私の近くから発されたものではなかった。

「私は言う側でも言われる側でもなくなってしまった。」ただ、そう感じた。

 

読まれる声や人や、何を含んでいるかによって、すべて変わってしまう(しまうと書いたけど、残念がっているわけではないんです。)んだなと凄みを感じた。強い風がフッと吹いて全身を縁取って通り抜けるような。

 

P42 ゆうこ

今回ゆうこのヤバさについて「乳首」というキーワードで一山盛り上がったのだけれど、私はそのすぐ後の

「ほら、ほら、ほら」が喉にとても詰まった。

3回も赤ちゃんに催促をかける気持ちが、「自分のことしか見えていない」ことの現れだ、、!と。

どこまで本気で、どこまで逃避だと自分で思いながらゆうこは発しているのか。この「ほら、ほら、ほら」(特に3回目の「ほら」)で私は狂気を感じた。

 

 

 

「悩み」がただ漠然と境目もわからないまま襲いかかってきていた時から、それは「年齢由来の悩み」「社会的なセクシャリティ、性別からくる悩み」「住んでいる場所からくる悩み」「私個人の悩み」などなど、カテゴリが少しずつ見えてくるようになった。それは私が記憶にある中では佳奈さんと話し続けた日々から大きく変わった気がする。けれどきっとそれだけではないんだろうとも感じ始めていて。

この作品の「当時」から10年が経つ中で、自分を含むさまざまな「ないとされていた人達」の存在がだんだんと色濃くなってきて、それによって変わってきた社会という名の「すべて」による影響なんだろうな。と今はそれくらいの言語の粗さで。

記録⑭:9月5日、2023東京編顔合わせ

 

2023東京編メンバーの顔合わせ。
この写真を撮ってくれたのは東京編の運営を一緒にやってくれる原口さとみさん。


そして、出演俳優の、有吉宣人さん、安東信助さん、里内伽奈さん、端田新菜さん、平野鈴さん。この日は朝も早くから渋谷のミヤマカフェに集合。

今回の企画は、俳優さんに「あなたにこの役をお願いしたいのです」という声のかけ方をしなかった。わたし→俳優という関係になるのは違う、と思った。


そこで、「戯曲を見つめて言葉を交わすという機会に参加しませんか?」と声をかけた。これなら、わたし→戯曲←俳優 となる。戯曲を真ん中に置きたかった。

誰がどの役を読むか、というのは厳密に言えば重要ではない。
登場人物は二十代後半女性だけれど、そもそも集まった人たちはその通りではないので、役と俳優に距離があって良い。

とはいえ、この日の顔合わせの前に、なんとなくこの組み合わせかなあ、という配役案を事前に提案した。

さやー里内伽奈 しずかー安東信助 あさこー平野鈴 
ゆうこー有吉宣人 まきー端田新菜

 

違ったらまた考えよう、と言って、この日実際に一度試しに読んでみたけれど、
満場一致で、この配役がちょうどいい、となった。

10年前の戯曲に触れたそれぞれの手触りから言葉を交わすことが目的で、戯曲が触媒として機能することを願っている今回は、演出家が持ち込んだ青写真に向かって稽古していく形ではなく、擦り合わせの稽古はせずに、俳優それぞれが準備してきて初めて合わせる時間にするのがいいだろうと思い、あえて“リーディングセッション”と呼び、稽古ナシをうたった。

でも、これは気を付けないと単なる準備不足と紙一重

何を大事にしてひらく場で、そのために何を準備せず、何を準備すべきかについて皆で話した。

「リーディングセッションのあとのクロストークをどういう時間にしたいかによるんじゃないかなあ?」

 

と、有吉さんが言った。

 

そうだ。リーディングセッションがメインのアフタートークではなく、むしろクロトークのためのリーディングセッションだ……!

当日までのそれぞれの準備について話し、

「ここは、どう解釈するんだろう? っていうこととか、もうすでに話したいこといっぱいあるけど、これは当日まで取っておこう……」

 

と言いながら別れた。

 

今回の座組は、皆さん、言葉を語ること、誰かの話を聞くことにとても真摯なメンバーだなあ、と思う。

そして、なんだかバラバラ。
それがとても良いなあ、と思った。




記:藤原佳奈


▼東京編企画詳細・ご予約
9月17日(日)@三茶PLAYs
『夜明けに、月の手触りを』から、展~2023東京編~

【お知らせ】『夜明けに、月の手触りを』から、展 ~2023 東京編~ - 「夜明けに、月の手触りを」から、展

 

『夜明けに、月の手触りを』リーディングセッション+クロストーク
出演:安東信助 有吉宣人 里内伽奈 端田新菜 平野鈴

進行:藤原佳奈  運営:原口さとみ

【お知らせ】9月の『ここに、台本がある~創作場~』について


7月、8月と犀の角で開催してきた『ここに、台本がある』ですが、
※『ここに、台本がある』・・・『夜明けに、月の手触りを』から、展の企画として、10年前に執筆された戯曲『夜明けに、月の手触りを』とその作者である藤原佳奈が、当日何をやるか決めずにただ犀の角に時間を決めて居る、という企画。

9月からは、有志参加者で、10月の13日~15日の上演に向けてクリエイションをしていくことになりました。

そこで、9月は『ここに、台本がある~創作場~』と題し、
犀の角で誰でも参加できる状態(はんびらき)で、クリエイションをする機会を設けることにしました。

台本(『夜明けに、月の手触りを』)を読み、そこから対話し、言葉を考える、言葉を声に出してみる、ということをいったりきたりする時間を過ごすことになると思います。
犀の角で開催するのは下記日程です。
どなたでも、ふらっと来ていただいて、対話に参加したり、ただぼーっと過ごしたり、台本を読んだり、ご自由に過ごしていただいて構いません。上演に何かしら関わってみたい、という方も大歓迎です。


9月『ここに、台本がある~創作場~』の日程

・9月7日(木)
・9月14日(木)
・9月22日(金)
・9月28日(木)

場  所:犀の角
       〒386-0012 長野県上田市中央2丁目11−20
OPEN:16時半~21時半(出入り自由)
料  金:無料 ※犀の角カフェでドリンク一杯ご注文ください。

何か気になること、質問があればこちらまでお問合せください。
問い合わせ先:yoakenitukinotezawariwo@gmail.com

台本のwebからの購入はこちらから





記録⑬:8月27日 『ここに、台本がある』~上演のアイディア変更~

8月27日の、『ここに、台本がある』。

暑さが続くせいか体調を崩してしまい、少し日が経ってから書いている記録なので、いろいろすっ飛ばしている。

この日は朝から上田のサントミューゼで“おどりば”企画のリハーサルだったので、
“おどりば”制作のKさん、参加者のJさん、Tさんが参加してくれた。
その他の参加は、毎回参加のMさん(瑞穂さん)、東京から参加のYさん。長野から参加のFさん。新潟から参加のIさん。犀の角をリサーチするため滞在しているNさん。

Kさんは、台詞のある部分を読んで心拍数が上がった、と言った。
台詞を読んでいると、繰り返しよくみる夢を思い出したそう。
それは、「お母さん!」と呼びかけて、いやいや、わたしがお母さんでしょう、と思い直す夢。Kさんには、二人のお子さんがいる。

「お母さんになりきれていないのかもしれない」とKさんは言った。

お母さんはお母さんであるだけでお母さんなのに、
ならなくてはいけないお母さんとは、なんだろう。

以下、この日、話された言葉の、覚書。

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“初めて母に反抗したときは高校のときで、公文を辞めたいと言った”

“「わたしだって子育て初めてや!」と、母に言われた。そりゃそうか、と思った”

“30歳になったとき、頂上に登ったようなすがすがしさがあった”

“26歳で勤めはじめた。30歳になっても、特に変化はなかった。”

“子どもいなくて共働きの《DINKs》って言葉が流行ったけど。今は持たないっていうか、持てないよね”

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しばらく話した後、

Iさん、Kさん、Yさん、Tさん、Mさんの5人で最後の章、【5人の夜明け】を読んだ。

今日の顔ぶれが年齢も性別も住んでいるところもバラバラ、
という印象が強いせいか、色んな声で読まれることの豊かさを感じた時間だった。

バラバラの声を聞きながら、前日に犀の角で荒井さん達に相談したことを思い返した。

(こんなにバラバラの声で読まれる可能性があるのに、三日間通読される機会が同じメンバーによるものでいいんだろうか………もしかしたら、有志参加者の上演は、リーディングを含まない方がいいかもしれない……)

読み終わり、それぞれ声に出した感想を聞いた後、上演の形について皆さんに相談してみた。いきなり企画会議に巻き込んでしまった。

戯曲を声に出し、全員が参加者というクローズドの状態でシェアすることと、
お客さんとしてやってきた人に向けて戯曲を読み、パブリックにひらくということは大きく違う。後者を実現するためには、超えるべきハードルがいくつもある。
せっかく創作の経験関係なく集まった人たちで、戯曲に触れた感触から始まることを大事にするならば、『夜明け~』を通読して公に成立させるというハードルは、設けなくてもいいんじゃないか。犀の角での上演は、通読してシェアすることが肝ではないんじゃないか。

皆さんに相談しながら、上記のことがはっきりしてきた。

有志参加者の上演は、リーディングは含まず、対話から創る新しい作品のみにしよう、と思った。

そして、台本を声に出して読むのは、どういう設えにするかは分からないけど、来場した人と一緒に読む形を考えられないか。

でも、8、9人集ったときに人数の限界を感じていた“みんなで読む”を、それを超えた大人数でやることは可能なのか? どんな在り方であれば可能なのか、全然イメージができていない。

「あー、うーん、考えることいっぱいあるなー、これ大丈夫かなー……」

わたしがムニャムニャと弱気になっていると、

「大丈夫です、私がいるんで。」

瑞穂さんが言った。

この日、Fさんが上演に参加したいと言ってくれたので、現時点での上演参加者は4名になった。



記:藤原佳奈






記録⑫:8月26日 犀の角で相談。

8月26日

犀の角の皆さんに、現状の報告と、今後についての相談。
宣伝美術の大沢さんも、同席してくれた。

台本と私だけがいて、そこからどうなるか全く分からずに始めた企画だったが、
この2か月弱で色んな発展をしていった、その経過を犀の角の皆さんにシェアした。

最初に10月13日~15日の間犀の角を借りることだけを決めていたが、場をひらき出会った人と交わしていくことで企画の進み方を決め、その進み方によっては、最後に“上演しない”も選択肢としてありうる、と思っていた。
けれども、何度も場をひらき、台本をきっかけに様々な人と話しながら、やはり“もう一歩パブリックに向かいたい”と思った。

少し脱線するが、私は今、“おどりば”という松本市のコンテンポラリーダンサー・二瓶野枝さんの企画にも携わっている。犀の角も共催の企画だ。
下は小学生から上は50代の大人まで、ダンスの経験問わない様々な方の、ソロの踊り作りに伴走している。
それぞれ個人の興味から作っていく踊り作品だが、最終的に“公に発表する”という場を控えていると、自分と世界の結び目のために、一歩勇気を出す、という姿をすべての人に見ている。そして、その姿に感動してしまう。
上手下手とかテクニックとかではなく、いつも心動かされるのは、その中心にある態度だった。

“おどりば”に関わりながらそのようなことを改めて考えていたこともあって、
『夜明け』の企画もどのような形になったとしても、“公に発表する”ところへ向かっていきたい、と思うようになった。

このとき考えていた構想は以下のようなこと。

◎犀の角を常時無料開放し、『夜明けに、月の手触りを』をきっかけに対話されたこと、応答された言葉を(何かしらの形で)展示
◎展示期間の3日間の間、有志参加者で毎日1回有料上演を行う
◎上演は、『夜明けに、月の手触りを』のリーディング+参加者間の対話から創作した短い上演作品 を一つのものとして発表


構想含め、これまでのことをざっとシェアした後、

「色々広がってきたこれまでのことが、最後まとめにかかるみたいな感じになってしまうともったいないんじゃないかな」

と犀の角荒井さんが意見をくれた。

確かに、そうなんだよな~と思う。
受け取り手との間をスムーズにするために整理し、削いでいく作業と
実践者の勇気が必要な場所へタッチするために集中していく作業は、全く違うことなので注意深く線引きをしないといけない。

拡散していくだけでは行けない場所へ行くために、何をすればいいのか/してはいけないのかはよくよく考えよう、と思った。

今回、犀の角での上演想定で『夜明けに、月の手触りを』のリーディングと、対話から創作した小さな上演作品とをひとつのものとして発表するという案について、

市民参加の演劇プロジェクトで、演出家がやってきて、俳優経験のない人が既成の戯曲を読む、というときの、つまらなさってあるよね、という話になった。

かける時間の少なさもあるけれど、戯曲と演出家の権威の元に、体よくまとめられていく時間。そうなってしまうと今回の企画は全く意味がない。そういった“権威”そのものを問うている企画でもある。

懸念としては、おそらくもっと時間をかけるべきプロジェクトなのにもかかわらず、プロジェクトの実りの可能性に対し、少し期間が短いとうことだ。
時間の制約は、対話が置いてけぼりになっていく可能性を孕んでいる。

時間の制約がある中でのクリエイションで起こりうることは、
①恰好がつく上演に向けて、プロセスがすっとばされる
こと。(様々な妥協の中で安易にこの危険性に飲み込まれる。)

一つの選択として、
②プロセス重視にして、上演を行わない
ということも考えられるけれど、

今回は、
③上演は行うが、プロセスを損なわないサイズの上演にする
ということを目指したいと思う。

9月のクリエイションは、犀の角で誰でもふらっと覗けるような状態でのはんびらきの場と、参加者のみのクローズドの打ち合わせを週一ずつ設けることにした。

(しかも、犀の角カフェに常時台本と手触りノートを置いておき、犀の角でクリエイションをしていない時でも常時『夜明けに、月の手触りを』から、展が開催されているかのような場を設えていただけることになった。これについては後日詳細を書く。)

まとめていく方向や、リスクを減らす方向ではなく、
常にしなやかな場が生まれる方向へと一緒に考えてくれる犀の角の皆さんのおかげで、大事なものを見失わずに進んでいる気がする。


記:藤原佳奈

記録⑪:8月24日『顔を見せないオンラインミーティング』


8月24日

『顔を見せないオンラインミーティング』を開催。

zoomを使うけれど、タイトルの通りカメラをOFFにすることをルールにしているので、誰も顔を見せない。私のカメラはONにするが、手元の台本だけを映し、顔は写さないので、画面上には、台本か、私が説明の為に時折使うホワイトボードしか映らない。

7月1日に、企画のタイトルを考える時も、このやり方を試した。
zoomの画面は、カメラをONにしていると正面を固定される感覚に疲れてしまうが、
声やチャットだけのやりとりだと、気楽だ。

オンラインなのにストレスが少なく良かったので、今回も同じルールでやることにした。

今回のオンラインミーティングは、改めて今どんな風に企画が進んでいるかを話し、
そのうえで、客観的に企画を聞いてどういう印象を受けるか、
最後にひらこうとしている「展示」形式の「展示」という言葉が持つ印象について、集まった人の意見を聞くという会だった。


参加は、前回のオンラインミーティング同様15名程。
(得体のしれないオンラインミーティングにこんなによく集まってくれるなあ、と思う)

『夜明けに、月の手触りを』から、“展”と、“展”をつけたのは、昼公演あるいは夜公演のときだけパックリとその口を開ける劇場、という印象をズラしたかったからだった。

限定的に開け閉めするのではなく、人が交差する中にある場を、劇場と呼びたかった。

そして、犀の角はもともと、ゲストハウスの人、近所の人、子どもたち、やどかりハウスの利用者など、様々な人が交わる場所である。その豊かさのままに、場をひらきたいと思い、“展”をつけ、態度の始点とした。

そこから、何をするかは決めていないけど、ささやかでも何かしら展示形式にして、常時無料開放で場をひらき、その時間の中で、1日1回有料の上演をやろう、というのが当初のざっくりとした構想だった。

『夜明けに、月の手触りを』から、展 の走りだしとして、
犀の角で『ここに、台本がある』と題した私と台本があるだけ、という場から始めた。

年齢性別問わず、来た人たちと言葉を交わした。戯曲に触れたことがきっかけで話されたことは、年齢のことや、ジェンダーについて、東京との距離、パートナーとの関係についてや、子どもを産む/産まないについて、親との関係など様々だった。

これまで言葉を交わしたことは、記録を目的としていなかったし、流れてしまうことだけれど(そしてそれでいい)、改めてこれまで言葉を交わした方に協力をしてもらい、あるいは、これから交わす言葉を意識的に記録し、
戯曲きっかけに生まれた様々な手触りを、文章か、音声か、何かの形で残す。
それを犀の角の中でゆったりと触れられる空間を作りたい、と思っているのが今の(8月24日時点)アイディアだ。

しかし「展示」という表現をしても、いわゆる一般的な「展示」とも違いそうだし、この記録ブログの存在も知らず、何も知らない誰かに向けて説明するときにどのような言葉を尽くすべきかを考えている途中だった。

そのあたりのことについて、オンラインで皆さんに話をした。


話を聞いて、
対話の生態学って感じだね。博物館に行くイメージと近い。と言った方がいた。

確かに、と、思った。
『博物館』という言葉から、
そうそう、“作家の世界観”じゃなくって、“わたしたちのこと”をやりたいんだよなあ、と思い出した。
おそらく、劇場の閉じている感じが気になるのも、同じ話だった。

“展示”ときくと「しずかそうなイメージ」がする、というのも気になった。

『夜明けに、月の手触りを』から、展 は、『ここに、台本がある』の濃縮&拡張のような場として、台本を声に出してみる人がいてもいいと思うし、誰かがおしゃべりしていてもいいと思うし、ただひっそりと一人で本を読んでいてもいい、と思っている。

色々話をしながら、やろうとしていることの全部を説明しきれるものでもないし、足を運んだ人が来てみて想像と違った、となっても、まあいいか。という気もしてきた。
(想像しきれるものなんて面白くないしな。とも。)

自分が今回、何を大事にして場をひらきたいかというのが、少し整理できた気がする。

1時間の予定が30分以上延長してお付き合いいただいたみなさん、ありがとうございました。


顔を出さないオンラインは、また、どこかのタイミングで開催します。


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終わってから、同居人のMちゃんにキッチンで会ったら、

「こんな風に進んできた企画やったんや~って初めて知ったわ~」と、玉ねぎを炒めながら言っていた。
オンラインミーティングに参加してくれていたらしい。

その後しばらくキッチンで立ち話していたら、玉ねぎは飴色になった。



記:藤原佳奈