「夜明けに、月の手触りを」から、展

【「夜明けに、月の手触りを」から、展】はじまりから、その日までの軌跡

記録⑰:9月7日『ここに、台本がある~創作場~』


(今日は9月25日。
9月7日以降の記録が滞ってしまったので、おぼろげな記憶を頼りにざっと書く。)



9月の『ここに、台本がある』は、
『ここに、台本がある~創作場~』として、上演の準備に向かいながらも、
犀の角で開催し、誰でもそこに居合わせられるようなオープンな状態を保ちながら、ひらくことにした。

上演参加者の他に、犀の角に関する映画を撮っているというAさんと、小諸市のKさんが立ちよってくれた。

東京在住のIさんはオンラインで繋いで参加、そして上演には参加できないけれども、関心があるのでできるだけ参加したいというSさんも参加。

『夜明けに、月の手触りを』の台本を読んでそれぞれ感じたことを話したあと、
皆さんに展示についての相談をする。

今回、犀の角を3日間ひらき、午後から夜まで入場無料の展示として場を開放する。
そして、その展示時間の中で、毎日一回演劇の上演をする、という設えにしている。

劇場という空間が、上演される時以外は扉を閉ざすような閉鎖的な空間にせず、
わたしたちの生活の交点に劇場を位置付ける試みだった。
そもそも、犀の角自体、すでに生活の交点として存在している。

生活・街<犀の角<展示<演劇

と、軸を同じくしながら濃縮していく関係でありたかった。

なので、展示があっての演劇上演。
なんのための、何をしようとしている展示なのか、
その焦点を確かめないと、上演にも向かえない気がしていた。

『ここに、台本がある』でこれまで交わされた豊かな時間のことを思い返しながら、
「ただ真ん中に言葉を置くこと」が重要だったのではないか、と指摘があった。

確かに、『ここに、台本がある』では、正解を見つけようとしたり、議論したり、ということがなかった。ただ、感じたことを誰かが話し、それを、へ~と聞く。
言葉が、真ん中にただ置いて、並べられていく時間。

誰も萎縮せずに言葉を紡げる場にしたい、とか、こちらの態度としてはもちろん色々あったけれど、そうしようと思ってそうなったというより、必然的に、そのような場になった、という感覚だった。そして、そうなった最も大きな要因は、真ん中に戯曲というフィクションがあったからだと思う。

「本当は、感じたこのふわふわを、ふわふわのままに伝えたいんですけど。綿あめみたいな。でも、アルミの弁当箱に入れなきゃ、ってなって、形を整えたり、変形させたりしてしまう、そういうのが嫌で。」と、Mさんが言った。

ライターのFさんが、読んでもらうために編集する書き言葉と、音声の言葉は全然違う、と話した。

今回の企画では、耳障りよい言葉や、正しい言葉ではなく、できるだけそのままの言葉をそのままに、
ただ、お互いに「聞く」ことが一番大事なのかもしれない。
それは、他者の声も、自分の声も。

“9月18日に開催する『夜明けに、月の手触りを』から、展~2023東京編~に来場してくれた方には、終わってから感想やコメントを書いてもらおうと思っていたけど、声で応答してもらうのもいいかもしれない”と案が浮かぶ。


オープンにしていると、いつ誰が来るか分からないので、場に揺らぎがある。
初めてきた人には一から企画を説明する。どんな関心で来てくれたのかも分からない。
揺らぐなかでどうするか考えるのは、人が集って何かをやるうえで、現実的だ!と思った。それは、毎回必ず、目の前にいる人を信頼する方に懸ける、ということでもあった。

上演に向かう段階にもよるけど、やっぱりオープンな場にしてよかった。


記:藤原佳奈