「夜明けに、月の手触りを」から、展

【「夜明けに、月の手触りを」から、展】はじまりから、その日までの軌跡

記録⑮:『ここに、台本がある』7/24の伊藤聖実の記録

 

 

 

『ここに、台本がある』

 

2023.07.24@犀の角

 

ほんの少しだけ人に見られることも意識した、独り言のような、メモのような、つぶやきのようなものです。

「完全な客観」は存在しないんだろうなと感じているからこそ、私自身が感じたことは大事にしたいなという気持ちのもと残してみます。

 

佳奈さんから台本が掲載された本が渡されたのは26歳のうちだった。

 

それから実際に読んだのは2回。

そして3回目が今回だった。

 

声に出して読むこと、

自分の身体を通ること、

音として感じること、

温度が違うこと、

音の中に含む想像が異なること、

「読んだ」と一言でいっても「黙読」と「音読」は全く違っていたな。

1人と複数も全然違う。

 

私は俳優志望だけど、実経験はまだない。

だから、「台詞を読む」ということに抵抗はない。むしろワクワクするけど、慣れてはいない。

そんな気持ちで臨んだ時間でした。

 

ポイント的に感じたことを残してみる。

 

 

P17 しずかの職場- - - - -

しずかの台詞を読んだ。

 

高校生の時の私みたい。

なんか「気持ちが強すぎて」というとマシな聞こえ方だけど、

相手がいるのに、相手に配慮する気持ちや余裕、想像力などが足りていない感じ?(”足りていない”って言葉もなんか…)

今の私はこの言い方はしないな。今は「どういう言い方をしたら相手が受け取りやすいのか」を含めて言葉を出しているのかな。

けど、身体としてはこのスピード感、強さ、背筋を伸ばしたしゃべり方、「!」がついて語尾までくっきりしている感じ。知っている。今は懐かしく感じるような気がする。

 

 

P21 ゆうこの幼稚園- - - - -

ゆうこと園児の母のやりとりを聞いて。

私は聞いていた。

 

ひとしきりキツかった〜。

この距離(同じ円卓を囲んだ、言葉のとおり「目の前」で、めっちゃ視界の中。逸らす方が不自然。)でこの尖った(ある種、何かを守るための強度がある)言葉が投げられている心地の悪さ。

「あなたはどっちの味方なの?」なんて急に話を振られるんじゃないかとヒヤヒヤしてしまう怖さもあった。

最後の「だってそうでしょう」だけでしっかりHP減る。

 

 

P39 5人の夜明け- - - - -

ゆうこの台詞を読んだ

 

あさこのセリフを1人で読んだ時、「あぁ、私は一番あさこに共感できるかも。」と思った。

あさこのセリフから想像できる状況。あさこはコーヒーカップと言っているけれど、私はとしまえんで今は亡き母と兄が手を繋いでいる絵が浮かぶ。事実だったのか私の気持ちから生まれた想像だったかは判断がつかないけれど、けど、私もきっと似た形の感情を持っている。ああ、あなたと共感できる気がする。

と同時に、「私は祝われる側ではない。」とも感じた。それは、結婚という行為に対する現実味がないからなのか。妹ほど世間的に器用な面が自分にはないと思っているのか。

だから私が声に出して読むときは、お祝いの気持ちから出発してはいるけれど、どうしても出てきてしまう冷たさを隠しきれず、どこか保冷剤みたいな、ずっと持っていると火傷してしまうような冷たさを含んで音にしてしまうんだろうな。

 

この回でこの「5人の夜明け」のあさこを読んだYさんの声からはあたたかさを感じた。それはYさんがこの台本を手に取るのが今日初めてだったからかもしれないけど、だとしても、やっぱりあたたかかった。

あたたかな声で読み上げられたセリフは、もう私の近くから発されたものではなかった。

「私は言う側でも言われる側でもなくなってしまった。」ただ、そう感じた。

 

読まれる声や人や、何を含んでいるかによって、すべて変わってしまう(しまうと書いたけど、残念がっているわけではないんです。)んだなと凄みを感じた。強い風がフッと吹いて全身を縁取って通り抜けるような。

 

P42 ゆうこ

今回ゆうこのヤバさについて「乳首」というキーワードで一山盛り上がったのだけれど、私はそのすぐ後の

「ほら、ほら、ほら」が喉にとても詰まった。

3回も赤ちゃんに催促をかける気持ちが、「自分のことしか見えていない」ことの現れだ、、!と。

どこまで本気で、どこまで逃避だと自分で思いながらゆうこは発しているのか。この「ほら、ほら、ほら」(特に3回目の「ほら」)で私は狂気を感じた。

 

 

 

「悩み」がただ漠然と境目もわからないまま襲いかかってきていた時から、それは「年齢由来の悩み」「社会的なセクシャリティ、性別からくる悩み」「住んでいる場所からくる悩み」「私個人の悩み」などなど、カテゴリが少しずつ見えてくるようになった。それは私が記憶にある中では佳奈さんと話し続けた日々から大きく変わった気がする。けれどきっとそれだけではないんだろうとも感じ始めていて。

この作品の「当時」から10年が経つ中で、自分を含むさまざまな「ないとされていた人達」の存在がだんだんと色濃くなってきて、それによって変わってきた社会という名の「すべて」による影響なんだろうな。と今はそれくらいの言語の粗さで。